|
木村太郎氏(右)と林真理子さん(撮影/写真部掛祥陽子)
|
木村太郎(撮影/写真部掛祥陽子)
ジャーナリスト木村太郎氏は、現在82歳。 世界を言う場合には、ドラマチックな人生秘話が凝縮されていました。 驚くべきエピソードが飛び出した作家林真理子氏との対談をお送りいたします。
※【「トランプのIQが高いと思う」大統領選挙予想の取り外し」謹慎中 “木村太郎が言う]よりずっと
* * *
リン:木村氏はゲイオウル出NHKに入って海外特派員と「ニュースセンター9時」のキャスターをして王道のエリートの道を歩むことにされたと考えていたが、いくつか資料を読んで、過去を知るなんて、まあすごい人生を歩まだと思う。
木村:あ、そうです。
リン:木村さん、実はすごい初期帰国子女であることでしょう。 カリフォルニア州のバークレーの誕生だが、父の仕事の関係で向こうに必要していたか?
木村:父は横浜正金銀行という日本の国策植民地銀行に行き、今の三菱UFJ銀行ですね。 転勤でそこに行ったが、戦争が始まるところだったので、私の父を残して、1941年に母と私たちの子供は、日本に帰ってきました。 当時、私は3歳でした。
リン:1941年といえば、昭和16年ですね。 帰りの船にオノ・ヨーコさんも乗って通ってすごい話ですね。 オノ・ヨーコさんのお父様も横浜正金銀行だったね。
木村:そうです。 父が仲間だったようですね。 陽子さんはその後姉が学校で一緒にだったのです。 その数十年後、私はフジで放送を持たときゲストとしてスタジオに呼んでたことがあり、「わざわざ来てくれてありがとうございます」といえば「やあね太郎ちゃん」ㅅ外実戦的に言ってしまって(笑)。
リン:さまざまな資料を読んでいく中、私は、姉も関心を持って、今日はお姉さんのことも聞いてみたいと思います。
木村:よろしければこの本致します。 私の姉のことを書いた本です。
リン:「ディアグロリア戦争に入れていない250通の手紙」あっ、ありがとうございます!
木村:姉が2人いて、上記の姉が10年少し前に病気で倒れ入院したので、私は姉の家の整理をしに行くと英語で書いた日記が山ほど出てきたのです。 戦争中、ニューヨークで別れた友人に書いた手紙の形で日記を書いたんですね。 読んで「これは面白い本をくれないと死ぬことができないだろう」と思って、私は本をしましたよ。
トップに戻る週刊朝日の記事のリスト
+ There are no comments
Add yours